愛しているわ、と囁く声が戒める。

走って走って走って。そうして辿りついたのは公園。
まだ朝も早い時間だ。静かな空間に、ステラは座り込んで、膝に顔を埋めた。
アスランは探しにくるだろうか。きっとくる。困ったように笑って手を差し伸べて言うのだ。

『おいで、ステラ』

初めてその言葉を言われた時、ステラは大事に持っていたうさぎのぬいぐるみを手放して、アスランの腕の中に飛び込んだ。
邸に閉じ込められて育てられていたステラを外に連れて行ってくれる人。
その人は死んだような目でステラを見て抱き上げて、そうして小さな手を掴んだ。
不思議なものを見るような目でステラの手を眺めて、そしてステラを見上げた時にはもうアスランは優しい光を目に宿していた。
そしてステラ、と呼んだその声が柔らかくて、ステラは温かい気持ちになって笑ったのだ。

覚えている。全部全部覚えている。
アスランのことだけではない。その時ステラが生まれて初めて笑ったことだけではない。
足元には父の亡骸が。部屋には血臭が。常に人の気配がしていた邸には、息の一つも聞こえなかった。
それが何を意味しているのか、ちゃんと分かっている。
けれどどうでもよかった。ステラにとって色を持つものはアスランが初めてだった。アスランだけだった。
いつだってどうでもよかった。色々なものを買い与える父。愛しているよ、私の娘。そんな言葉すらどうでもよかった。
邸で働く人も知らない。ステラを見るたび化け物を見るような目で怯えて嫌悪して。必要なこと以外、ステラに関わるのを避けて。
それに何を思ったわけでもない。ただ彼らは知っていたというだけのこと。ステラが何なのか。
ステラも知らなかったステラの真実を。

ステラがそれを知ったのは二年前。アスランへの想いを自覚するより前だ。
唐突に変わったステラの色。赤い髪は黄金へ、灰の目は赤紫へ。それが父親がステラに為した仕掛けなのだと知った。
遺伝子に組み込まれた二人の女性の情報。父親が愛し、手に入れられなかった女性と父親の妻たる人の情報。
父親が女性と出会った時の女性の年齢にステラが追いついた時、ステラはその女性となる。
そのために組み込まれた遺伝子。そのために為された仕掛け。

もう一人の遺伝子の持ち主である妻たる人はステラの母親だが、ステラは一度も会ったことはない。
ステラに別の女性の遺伝子が混ぜられていると知って、母親は出て行ったという。
それでなくともどうやら可愛がっていた義娘を取り上げられ、精神的に落ち込んでいたというのだから、それがとどめだったのだろう。
当然だろうとステラは思う。けれど同じことをアスランにされても、ステラはきっと出て行かない。その相手からアスランを奪えばいいのだ。そうまでしてもその相手を想っている、もしくはただ執着している相手よりステラの存在を大きくすればいいのだ。
できないとどうして言い切れる?だっていないのだ。その相手は側にいない。側にいるのはステラだ。
子供がいてもいいではないか。その子供は自分の子供だ。自分とアスランの子供であることに変わりはない。
愛せるかどうか。そんなことは分からないし、自分がその立場に置かれた時、本当はどう思うのかは分からない。 けれど、そう考えた自分にステラは力を与えられた気がした。

ステラは顔を上げて空を見上げる。その赤紫の目に涙が溢れている。けれど笑う。ふわっとした笑顔でアスラン、と囁く。
そう。そうだ。アスランのことは好きだ。大好きだ。愛してる。
アスランの心の中に、ステラは確実に住んでいる。愛されている。
いつまでも亡くなった妻を愛していても、ステラのことだって愛しているのだ。そしてステラは生きている。
生きてアスランの側にいて、アスランに好きよと言い続けている。
辛い、苦しい、悲しい。でも。

ザッ、と足音。
ステラは立ち上がって、振り返る。


「…おいで、ステラ」


困ったような顔で両手を広げた人に、ステラは笑って、


「だいすき、アスラン」


抱きついた。


* * *


グレイシアの最初の異変は、結婚して三年目。ラクスとキラがアスランを訪ねてきた後だ。
互いに色々と忙しくて都合がつかなかったが、結婚式に一度会っただけのグレイシアと交流を深めたいと。
グレイシアも楽しそうに笑っていた。嬉しそうにしていた。けれどどこからだろう、無理が見え始めた。

『私はあなたのことを何も知らない』

二人が帰った後の一言がそれだった。
思い出話はその時間を知らぬ人間にすれば時に辛い話だ。だから思い出話を語り始めるキラとラクスから、時折話を逸らしていたけれど、グレイシアは十分に気にしたらしかった。
そんなグレイシアにまだ三年だ。これからも長い間一緒にいるのだから、互いを知る時間はたくさんあるだろう、と抱きしめた。
それにほっとしたように微笑んで頷いてくれたグレイシアにアスランもほっとして。
けれど、時折ではなくもっと徹底的にするべきだったかと後悔した。

二度目の異変は、キラの双子の姉でありアスランのもう一人の幼馴染であるカガリが、グレイシアに会いたいと言った後だ。
ラクス達の件があったので断ったが、カガリだけでなくキラとラクスの三人がかりでどうして会わせてくれないのだとしつこかった。
この様子では突然やってきかねないと、その時に自分がいればいいが、いない場合のグレイシアが心配だった。
あれ以来普段通り笑ってはいるが、時折何かを考えるような姿にアスランは不安を覚えていた。
だから会うのならば思い出話はできるだけ避けてほしいと頼んだ。ラクス達は不思議そうな顔をしていたけれど、承知してくれて。けれど念のためにとイザークとディアッカにも声をかけた。
その甲斐あってか、それほど思い出話が出てくることもなかった。多少の思い出話は出ざるを得なかったが、グレイシアは今度はそちらには反応しなかった。反応したのは別のこと。

『私も私の意志であなたといたかった』

それは互いの意志の外で出会わされ娶わされたからこその言葉。
そして知った。彼女を巣食うものは、不安ではない。罪悪感だということに。

グレイシアは知っている。アスランとグレイシアの結婚の意味を。
いうなればグレイシアはアスランの枷だ。クライン派からはめられた枷。グレイシアはそう思っているようだった。
アスランはグレイシアを枷だなどと思ったことはなかったが、犠牲者だと思ったことはあった。
結婚を決められたその時、もっと自分が上手く立ち回れていればと思った。
グレイシアに好意を持てば持つだけ、自分さえいなければ、とも思った。
けれどグレイシアが笑ってアスランを呼ぶたびに、過去を悔いるよりも彼女を幸せにしようと思った。
なのに、気づかなかった。彼女の罪の意識。

愛している。愛している。グレイシア。

そう繰り返すだけの自分に、けれど彼女は涙で濡らした目を向けるだけだった。

三度目の異変は、結婚生活が四年目に突入した頃だった。
アスランが家庭教師を頼まれて面倒をみていた少女がいた。
名前をミーア。ミーアはラクスと同じ顔、同じ声をしていた。目はラクスと同じ水色、髪は桜色のラクスとは違って黒色をしていたけれど。
ラクスと違った大輪の花のような笑顔を浮かべるミーアは無邪気で、アスランを兄のように慕っていた。
それをグレイシアも知っていたが、会ったことはなかった。二人で買い物に出ている時に、偶然ミーアに会ったのが初めてだった。
ころころと表情が変わるミーア。素直にアスランへの好意を表に出すミーア。グレイシアにも人懐っこい笑みを向けるミーア。
戸惑ってはいたが、グレイシアもミーアを気に入ったようで、何度か連絡を取っていたようだった。
けれど、ある日義父に会いに行ってから様子が変わった。

『あなた、あなた、あなた!!』

アスランに抱きついて、ただ呼ぶ。どうしたと聞いても首を振る。義父に聞いても分からないと言う。
その日からグレイシアはミーアと連絡を取ることをやめた。名前も出さない。出せば怯える。怯えて泣いて、ただアスランを呼ぶ。

グレイシアは笑わなくなった。


* * *


ソファに座って雑誌を読んでいるアスランの隣で、ステラは膝を抱えて座っていた。そして膝に頬を乗せてアスランの横顔を眺める。
きれいな顔だと思う。部屋に飾ってある写真のアスランはほとんどがこの顔だ。
けれど一枚、幼いアスランとアスランの両親が写っている写真だけは違う。
可愛い、少女とも見間違いかねない容貌のアスラン。それが三十も過ぎれば男以外の何者でもないのにきれいと評する男になるのか。
外に出てもう五年経つのに、ステラはアスランよりきれいな人を知らない。思わずくすっと笑う。
子供の頃は自慢の養父だった。パパ、パパと実の父親にも呼んだことのない名で呼んでいた。
そう呼んで、アスランが返事をするたびに嬉しかった。そうしてそれを羨ましそうに見ている周りに、誇らしい気持ちになった。
初めて味わうたくさんの温かい気持ち。それをくれるのはいつだってアスランだった。

「アスラン」
「うん?」
呼ぶとアスランが顔をこちらに向けた。どうした?と微笑むアスランに手を伸ばすと、ぎゅっと握ってくれる。
「ステラがパパって呼ばなくなった時のこと、覚えてる?」
「覚えてるよ。ショックだったから」

ステラの髪と目の色が変わって。ステラの遺伝子に仕掛けが施されていた、それを知ってからだ。
ステラはそれでも自分をステラと呼んで、抱き上げて微笑んでくれるアスランにほっとした。そしてもっと好きになった。
けれど何気ない言葉。アスランにとっては何気ない言葉がステラに衝撃を与えた。

『いつかステラにも好きな男の子ができて、ステラの一番はその子になる。
ステラが一番にした男の子なら大丈夫だ。きっとその子も俺と一緒でステラはステラだと言ってくれるさ』

それが酷くショックだった。
ステラの一番はアスランだ。アスランが二番になることなんてない。けれどアスランはそうなる日がくると言う。
ステラはアスランだけでいいのに。アスランだけがステラを好きでいてくれて、ステラはステラだと言ってくれる。それだけでいいのに、アスランはアスランだけじゃないと言う。
そんなのいらない。そう思って、泣きたくなって。

『アスランの馬鹿!!』

初めてパパと呼ばなかった。初めて怒鳴った。初めてアスランから離れた。
アスランには理由が分からなかっただろう。どれほど宥められても、ステラは頑なにアスランを拒んだ。
ステラと困ったように、不安そうに呼ばれてもステラは笑えなかった。

「分からなかった、まだ。二日くらい経ったら、どうしてこんなにショックなんだろうって思った。
アスランだけでいいって思った。だからアスランにもそう思ってほしかった。それが何でなのか分からなかったの」

アスランが眉を寄せた。聞きたくないのだろう。これはステラの告白だ。
いつもの好きではないけれど、アスランへの想いを乗せた告白。娘としてではない想い。

「分かったのはね、アスランが先生と話してるの見た時。先生、アスランに見惚れてた。なのにアスラン気づかないで笑うから、先生が顔真っ赤にして。それが嫌だったの。かっこいいお父さんねって褒めてもらっても、子供の時みたいに嬉しくなかった」

かっこよくなくてもいいと思った。そうしたらステラだけがアスランを見ている。それがいいと思った。
そう言ってステラはくすくすと笑った。
アスランが口を開くが、ステラが首を振った。最後まで聞いて、と。

「アスランに抱きついて、先生にお父さんが大好きなのねって言われて。アスランが嬉しそうに笑ってくれて。その時分かったの。ステラはお父さんのアスランが好き。でもアスランだけでも好き。学校の男の子よりアスランに好きって言ってもらったほうが、ずっとずっと好き」

アスランがステラ、と苦しそうに言う。いつものように意味をすり替えて、俺も好きだよと言わないのはどうしてだろう。
けれど言わないのならいい。今の内にたくさん言っておこう。アスランがお父さんに戻る前に。

ステラはアスランの手を握ったまま立ち上がると、アスランの前に立つ。
見上げてくるアスランの手をそっと放して、腰を曲げるとアスランの頬を包む。

「『私』はアスランが好き。大好きよ。何回でも言うわ、大好き」
「ステ、ラ」
「奥さんのこと、愛しててもいいよ。ステラの方がもっと好きって言ってもらうから。
『私』はずっとアスランの側にいるもの。『私』はずっとアスランが好きって言い続けるもの」

だから、とふわっと微笑みを浮かべる。
アスランが目を見開いた。

「ステラは大好きなアスランの娘だけど、『私』はアスランが大好きな女だって覚えてね」

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